時代とともに海が新田や 工業地帯になっていく様子 |
堀川がつくられたころ、熱田の前は一面の海が広がっていました。 江戸時代は農業が中心でしたので、尾張藩(おわりはん)や豊かな町人は、取れる米を増やすために、海をだった所を新田にしてゆきました。 熱田の近くの海はもともと遠浅で、川や海が運んでくる土がたまり、毎年少しずつ浅くなっていきます。この浅い海に土を積みあげて堤防(ていぼう)をつくり、その中を田にする工事がたくさん行われました。これを「干拓」(かんたく)といいます。 また、明治になると、海を埋め立てて工場などをつくりました。 そのために、海は熱田からだんだん遠くなり、堀川は海にむかってのびていきました。
(CD 堀川ミュージアムより転載)
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