名古屋城や巾下水道に水を送った御用水



 御用水(ごようすい)がつくられたのは、名古屋城や堀川ができてから約50年後の寛文3年(1663)です。
 それまで名古屋城のお堀(ほり)や堀川へ流れこむ川や用水はありませんでした。名古屋城の北側は低い土地だったので、自然のわき水がお堀に入っていたと思われます。しかし、町が大きくなり家が増えると、地面にしみこむ水が減ってわき水も少なくなってきたのでしょう。また、堀川の西側の町は井戸(いど)の水質が悪く、良い水が飲めるようにしなければいけませんでした。
このため、現在の守山区にある龍泉寺(りゅうせんじ)下の庄内川(しょうないがわ)から水を取り入れ、お堀まで水路がほられました。これが「御用水」です。水路の幅(はば)は約3mで深さは1m、両岸には松が植えられていました。

 御用水の水はお城のお堀に入り、さらにお城の西に設けられていた、お堀と堀川を結ぶ水路を通って堀川に流れこんでいました。また、お堀の水を木のマスやトイ、竹を使って各家に配水する「巾下水道(はばしたすいどう)」がつくられ、堀川の西の町でもおいしい飲み水が手に入るようになりました。

 その後、明治10年(1877)に黒川がつくられた時に、御用水の流れも変えられ、水分橋で庄内川から取水した水を、三階橋近くの黒川分水池で御用水に分けるようになりました。

 明治時代になると、川ぞいには御用水や黒川のきれいな水を利用して、布に色をつける染物業(そめものぎょう)が増え、名古屋一の染物工業地帯になりました。そのなかでも、名古屋友禅(なごやゆうぜん)は有名なものです。
御用水が無くなった今でもそのなごりで染物工場が残っています。


名古屋友禅


 御用水跡街園


街園になる前の御用水

 堀川(黒川)ぞいの散歩道として親しまれている御用水跡街園(ごようすいあとがいえん)。
ここは、御用水(ごようすい)とよばれた用水路でした。黒川がほられたよりもずっと昔につくられ、名古屋城のお堀(ほり)や、巾下水道(はばしたすいどう)の水に使われていました。


 この御用水も、まわりに家が建ち、水を取り入れる庄内川の水もきたなくなってきたので、だんだん利用されなくなり、ゴミすて場のようになってきました。このため、夫婦橋(めおとばし)から猿投橋(さなげばし)までの約1.7キロメートルをうめて堀川(黒川)ぞいの散歩道にする工事が、昭和47年から昭和49年におこなわれました。
 今では木も大きく成長し、散歩の人も多く、春には桜の名所として花見客でにぎわっています。


(CD 堀川ミュージアムより転載)

 右が黒川で左が御用水。
 昭和46年(1971)、木津根橋(きつねばし)ふきんの風景です。