名古屋の誕生と堀川





 慶長8年(1603)に、徳川幕府(とくがわばくふ)が
できました。

 しかし、大阪(おおさか 当時は大坂)にはまだ
勢力をもつ豊臣(とよとみ)方が残っており、
徳川家康は戦争の時には、尾張(おわり
愛知県の西部)をしっかり守らなければいけないと
考えていました。

 そのころは清洲(きよす)がこの地方の中心地
でしたが、五条川ぞいにあるので、戦争になった
ときに川の堤防(ていぼう)をこわしてお城の
まわりを水びたしにする「水ぜめ」が心配され
ました。

 このため、名古屋台地の上に大きなお城と町を
つくることにしました。
 
 慶長15年(1610)に名古屋城の工事が始まり、
その後、清洲から町ぐるみのひっこしが行われ
名古屋の町がうまれました。

 このひっこしを「清洲越し(きよすごし)」と
よびます。

 町でたくさんの人が生活するには、米や野菜、
魚や塩など、いろいろな物が必要です。

 当時は一度に多くの物を運べるのは船しか
ありません。

このため名古屋台地の西にそって、お城から
当時の海岸であった熱田まで川をほりました。

 これが堀川です。


堀川の開削

 堀川は名古屋城の建設と同じ時期の
慶長15年(1610)にほり始められ、
16年(1611)に完成しました。

 名古屋城の巾下門(はばしたもん)の
近くから始まり、城下町のある
名古屋台地の西に沿って、
広井、日置(ひおき)、古渡(ふるわたり)を
経て熱田の海に注ぐ、長さ約6キロ、
はば22〜87メートルの川でした。

 福島左衛門大夫正則
 (ふくしまさえもんだゆうまさのり)が
普請総奉行(ふしんそうぶぎょう)になり、
美濃(みの 岐阜県)や伊勢(いせ 三重県)
などの大名にも手伝いを命じたと伝えられて
います。










 このときの堀川は、今の朝日橋の付近までしか
ありませんでした。

 今でも朝日橋のところから上流は急に川はばが
せまくなっていますが、広い所までが最初に
つくられた堀川で、ここを堀留(ほりどめ)と
よびました。

 堀留では、名古屋城のお堀(ほり)の水が
流れこんでいました。

 今、朝日橋のたもとには、このことを伝える
「堀留跡の碑(ほりどめあとのひ)」が建てられて
います。
福島正則ってどんな人





 福島正則(ふくしままさのり)は、永禄4年
(1561)に、名古屋の西、今の海部郡美和町
(あまぐんみわちょう)で生まれました。

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)とは親せきに
あたります。

 秀吉につかえ、天正11年(1583)に秀吉と
柴田勝家(しばたかついえ)が戦った
「賎ヶ岳(しずがだけ)の戦い」に
参加して大きなてがらをあげ、加藤清正
などとともに「七本槍」の一人に数えられ
ました。

 朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)にも
参加し、文禄4年(1595)に清洲(きよす、
24万石)の領主になりました。

 関が原の戦いでは東軍(徳川家康方)に
参加し、その功績で慶長5年(1600)に
広島(49万8千石)の藩主(はんしゅ)になり、
この広島藩主だった時に家康から命ぜられて
堀川をつくりました。

 その後、許可を受けずに広島城の
修理を行ったことを口実にして、元和5年
(1619)信州(長野県)の川中島
(4万5千石)の藩主にかえられ、
寛永元年(1624)に64才でなくなり
ました。

(CD 堀川ミュージアムより転載)

納屋橋のらんかんにある福島正則の家紋(かもん)。