納屋橋のおいたち


名古屋城史より
 納屋橋(なやばし)は、名古屋で一番良く知られている橋でしょう。
 にぎやかな広小路と堀川がまじわる所にかかっています。商店街やビジネス街に取り囲まれ、早朝から深夜まで人波がとぎれることがありません。
 この納屋橋は、慶長15年(1610)に堀川がつくられたころにかけられた「堀川七橋」の一つです。名古屋の市街地と西の烏森(かすもり 中村区内)方面を結ぶ柳街道(やなぎかいどう)があったのでかけられました。
 橋がかけられたころの広小路は名古屋の街の南のはしに近く、けっしてにぎやかな所ではありませんでした。少し北にかかっている伝馬橋のほうが、美濃街道(みのかいどう)がとおり、大名行列などたくさんの人が行き来してにぎやかでした。


なぜ「納屋」橋なのでしょう


 古くからあるよく知られた橋なのに、どうして「納屋橋」(なやばし)と名付けられたのか、はっきりせずいろいろな意見があります。納屋(なや)は物を入れておく倉庫のことです。

近くの町名から名付けられた?

 以前は橋の西側に「納屋町」という町がありました。魚屋さんが多く、「魚屋」(なや)から「納屋町」とよばれた、または倉庫が多いから「納屋町」とよばれたといわれています。その近くの橋だから「納屋橋」と名付けられたというわけです。

尾張藩(おわりはん)の蔵(くら)から名付けられた?

 納屋橋の南東には、尾張藩の米を入れる大きな蔵がたくさんありました。米をしまっておく納屋の近くにかかる橋だから「納屋橋」と名付けられたというわけです。


 さて、どちらが本当でしょうか?
 まず、「納屋町」から生まれたという意見ですが、清洲(きよす)から町ぐるみの引っこしがほぼ終わって名古屋の街にたくさんの人が住むようになったのは、堀川がつくられた時より少しあとの慶長18年(1613)ころからです。橋をかけたころに、そんなにたくさんの魚屋さんや倉庫がこの近くにあったのでしょうか。
 もう一つの「藩の蔵」から名付けられたとの意見ですが、昔の地図には「御蔵」(おくら)と書かれ、「納屋」と書いてあるのはありません。尾張藩の大切な蔵で「蔵」の前に「御」の字までつけて書かれているところを納屋とよんだのでしょうか。

 どちらの意見が正しいのか、今となってはわかりません。


納屋橋のかけかえ



木の橋

 昔の橋は木でつくられており、風雨にさらされ水につかるので、わりと短い年月でくさってしまいます。このため、納屋橋(なやばし)も永い年月の間に何度もかけかえられたり修理されたりしました。


18〜19世紀ころの納屋橋


近代的な鉄の橋へ

 明治22年(1889)に東海道線が全線開通し、その後中央本線や関西線もできて、名古屋駅のあった笹島(ささしま、中村区)は、鉄道交通の中心になってきました。名古屋の中心部と駅を結ぶ広小路も、はばが広げられ、にぎわいを増してきました。また明治40年(1907)に名古屋港が外国と貿易をする開港場に指定され、港と市街地を直接結ぶ堀川を通る船はますます増えてきました。このようななか大正2年(1913)に、納屋橋は近代的な橋へ改築されました。
 材料は以前の木から鉄に変わり、川の中に橋の足が無いアーチ型になり、橋の中央にはバルコニーが張り出し、大きな石造りの親柱やどっしりとしたらんかん(手すり)が付きました。西洋風のしゃれた納屋橋はさぞ人々の目を引いたことでしょう。多くの船がゆきかう堀川と、人どおりが多くにぎやかな広小路がまじわる場所にふさわしい橋に生まれかわりました。

堀川をつくった福島正則の紋

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の紋(もん)



今の納屋橋

  大正時代にかけられた納屋橋も、古くなっていたんできました。また自動車が増えて道はばを広げなければならなくなったので、昭和56年(1981)にかけかえられました。
 新しく現代風の橋にしたほうが安くできるのですが、名古屋の代表的な橋として親しまれてきた昔の納屋橋の姿をできるだけ残すことになりました。らんかんは昔の橋で使われていたものを修理してもう一度使っています。また、今の橋は、橋の下のアーチが無くても良いのですが、大正時代の姿を伝えるため、かざりとしてアーチが付けられました。
 納屋橋は、名古屋の都市景観重要建築物に指定されています。

  (CD ほりかわミュージアムより)




橋の下のアーチやらんかんに昔の姿を残している