東海道と熱田宿


 江戸時代(えどじだい)には、政治の中心であった江戸(東京)から地方への交通の便利が良いように、五つの街道が整備されていました、東海道、中山道(なかせんどう)、甲州街道(こうしゅうかいどう)、奥州街道(おうしゅうかいどう)、日光街道がそれです。そのなかでも、東海道は江戸と京都を結ぶ、日本で一番とおる人が多い重要な街道でした。
 慶長6年(1601)には、旅人がとまったり荷物の運送などを行う「宿場(しゅくば)」が決められ、街道の整備がすすめられていきました。道には日差しをやわらげるため松の木が植えてあり、旅人がどれだけ歩いたのかわかるように、1里(4キロメートル)ごとに、榎(えのき)などの木を植えた「一里塚(いちりづか)」がつくってありました。
 名古屋市内の東海道は、鳴海(緑区)から笠寺(かさでら 南区)をとおり、熱田に着き、熱田からは、「宮の渡し(みやのわたし)」とよばれる、船で桑名(くわな 三重県)へ行くコースでした。波が高くて船が出ないときや、船がきらいな人は、熱田から佐屋街道(さやかいどう)をとおって桑名に向かいました。また、美濃街道(みのかいどう)をとおって中山道にでることもでき、熱田は交通の中心地でした。
 仕事や伊勢神宮(いせじんぐう)へのお参りなどでたくさんの人が行き来し、大名も150家が江戸に行くときに東海道をとおることが決められていました。また、朝鮮(ちょうせん)から来た朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)も、美濃街道で熱田まで来て東海道で江戸に向かいました。
 熱田はいつも旅人でにぎわっていました。


 海上七里の海のみち

右の海の中にあるのは「東浜御殿」(ひがしはまごてん)。
御殿に面した岸が船着場で、その左側に船会所があった。
右下の、たくさん人が乗っているのが渡し船。


 熱田から桑名(くわな 三重県)までは、東海道でただ一か所の、海のうえを船で行く「宮の渡し(みやのわたし)」です。約7里(28キロメートル)あったので、「七里の渡し(しちりのわたし)」ともよばれました。
 船は午前6時から午後6時まで運航しており、船着場(ふなつきば)にある船会所(ふなかいしょ)で手続きをしてから乗りました。75せきの渡し船(わたしぶね)があり、なかには40人以上乗れる大きなものもあったそうです。熱田の海岸は浅いので、干潮(かんちょう)の時には大きな渡し船は岸につけられず、小船で岸からはなれた沖にいる渡し船まで行って乗りかえました。
 そのときの天気や、海が満潮(まんちょう)で水深が深いときと、干潮で浅い時では、船がとおるコースが変わりました。このため、船に乗っている時間も2時間から6時間とさまざまで、ふつうは3時間くらいで行けました。
 船着場には、船の目印にするための「常夜灯(じょうやとう)」があり、蔵福寺(ぞうふくじ)では「時の鐘(かね)」をついて時間を知らせていました。




昔のおもかげを残す、宮の渡し公園の常夜灯


 熱田宿のにぎわい


赤本陣に大名が着いたようすです。

  熱田宿(あつたしゅく)は熱田の宮があるので、宮の宿(みやのしゅく)ともよばれていました。
 江戸から41番目の宿場で、ここまで来るのに13日前後かかったと言われています。
 大名がとまる本陣(ほんじん)は赤本陣・白本陣の2つ、一般の人がとまる旅籠(はたご 旅館)は248あり、旅籠の数は東海道で一番多い宿でした。
 このほかに、尾張藩(おわりはん)のお客様をとめるために、海の中にお城のような東浜御殿(ひがしはまごてん)がつくられ、今の市営神戸荘(ごうどそう)のところには西浜御殿(にしはまごてん)がありました。





海辺の宿で楽しむ人々
  人や荷物を運ぶ問屋(といや)には、100人の人足(物を運ぶ人)と100頭の馬が用意されていました。武士(ぶし)は問屋で用意している人や馬を使い、それ以外の人は自分で馬を持っている人と交渉をして運んでもらいました。
 また熱田宿には、よその宿場にはない「御朱印改役所」(ごしゅいんあらためやくしょ)がありました。幕府(ばくふ)のえらい人が出した「朱印状」(しゅいんじょう)というものを持っていると、ただで人や馬を使うことができましたが、この「朱印状」が本物かどうか調べるのがこの役所の仕事でした。

 熱田宿は、旅人がとまるだけでなく、名古屋から遊びに来る人もたくさんいました。海の景色とおいしい料理を楽しみに来たのでしょう。ここにあった茶屋で「どどいつ節」という歌がうまれ、全国で流行しました。これを記念した石碑(せきひ)が姥堂(うばどう)にたてられています。



 伝馬町と神戸町がまじわる、熱田宿の中心。神社は、東海道を行く人の守り神といわれた「源太夫社」。手前の道を行くと江戸へ、左の道を行くと宮の渡しの船着場に行きます。かごや馬に乗る人、荷物を運ぶ人、たくさんの人でにぎわっています。 

 (CD 堀川ミュージアムより)




伝馬町にある、寛政2年(1790)に建てられた道標