明治17年(1884)、新木津用水(こっつようすい)の
改修工事は八田川(はったがわ)の合流地点まで完成
しました。
そのつぎの年、黒川治愿(くろかわはるよし)は、
病気のため県庁を退職し、名古屋市の南久屋町の
自宅で、療養生活(りょうようせいかつ)に入りました。
明治19年(1886)9月25日、工事の完成を祝い、
黒川治愿が行った木津用水の改修(かいしゅう)の仕事を
たたえる碑が、春日井市の高山に建てられました。
朝宮公園(あさみやこうえん)のかたわらを木津用水が
流れています。
改修記念の碑は、川の流れを見つめて立って
います。
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明治28年(1895)10月、春日井市の柏井町(かしわいちょう)にある慈眼寺(じげんじ)の境内(けいだい)に
上条新田開拓碑(じょうじょうしんでんかいたくひ)が
建てられました。
碑は漢文によってしるされたなかなかの名文です。
「木津用水の改修により、荒れはてた地に水が引かれ、
米が多くとれるようになった。
多くの金銭を出し、何日も工事に人夫として出かけて
働いた」とその努力が実った喜びが簡潔(かんけつ)な
文の中によく表れています。
現在、この碑は慈眼寺から、春日井市の中央公園の
南側にある神明社に移されています。
木々にかこまれた碑に目をとめる人は誰もいません。
木もれ日をうけて、鳥のさえずりを聞きながら、
碑はさびしく立っています。
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二子山古墳(ふたごやまこふん)の近く、白山神社
(はくさんじんじゃ)の境内には、明治30年(1897)に
建てられた味鋺原新田(あじまはらしんでん)改修記念碑が
あります。
この碑の書きだしは「苦労を多くしたものは、苦労の
はてに手に入れた幸福の感激をだれよりもよく知っている」と、木津用水が改修され、きびだんごを主食としていた
まずしさから解放された喜びが感謝をこめてしるされています。 |
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八田川にかかる御幸橋(みゆきばし)には、
黒川治愿遺沢(くろかわはるよしいたく)の碑が
立っています。
明治42年(1909)に、治愿の子息、耕作が
しるしたものです。
遺沢とは、あとに残っているめぐみの意味です。
「黒川治愿のおかげで、勝川地方も田畑がふえて、
まずしいくらしからぬけ出ることができた。
今の人は、そのめぐみを知らないでいる。
『もし先君なかりせば、何ぞ今日あるか』」
もしも、黒川治愿がいなかったならば、勝川地方の
今はないとしるしています。
(CD 堀川ミュージアムより転載)
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